蒲生 氏郷
(がもう うじさと)
氏郷は弘冶2年(1556)に近江日野城主蒲生賢秀の長男として生まれ、織田信長に仕え、ついで、豊臣秀吉の天下統一に従って活躍した戦国武将である。小田原征伐では大いに功績を上げ、42万石をもって会津若松城主に任ぜられ文禄2年(1593)には91万9300石に加増されている。
氏郷はその短い在城中に、黒川城の大改築を行い、七重の天守閣を建てておおいに城を拡張し、名城と謳われた鶴ヶ城の基礎を固めた。さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの施策を講じた。その一つは市を設けて生産物の交易を図った。馬場町は一と八、本郷町は二と七、三日町は三、桂林寺町は四と九、大町は五と十、六日町は六と、日を定めて市を設けた。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作り、また酒造や金工など、上方の秀れた技術を会津へ移入する事によって、後世に伝えられる産業の振興を図った。文禄4年(1595)没。
氏郷辞世歌
「限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
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