松平 容保
(まつだいら かたもり)

 尾張徳川家の分家、美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の6男として、天保6年(1835)12月29日江戸四谷の高須藩邸松平家上屋敷で生まれ、幼名を_之允(けいのすけ)といい、弘化3年(1846)6月、11歳の_之允は会津松平家の養子となる。江戸和田倉門会津上屋敷で藩主容敬が直々に教育に当たった。
 江戸で5年間帝王学を修めた容保は嘉永4年(1851)5月、16歳の春会津に下る。会津での教育には国家老の山川兵衛が当たった。この兵衛の孫たちが後年会津を代表する人物となる。山川大蔵・山川健二郎・大山捨松がそうである。
 しかしながら、会津藩主松平容保ほど苦難に満ちた生涯を送った大名は他にいない。事の始まりは、幕府長老より京都守護職を押し付けられたのが発端である。孝明天皇(明治天皇の父君)の厚い信頼を受けながら、都の治安を前身全霊で遂行し、都に火を放ち孝明帝を長州に拉致しようとした策略を未然に防ぎ、「公武一和」を望んだ容保も徳川慶喜に見放され、いわば幕府の生贄となって戊辰戦争を戦う羽目に陥った。
 戊辰戦争後、慶喜が駿府で悠々自適の生活をしている頃、会津藩家臣は会津降陣人とさげすまされ、容保は日光東照宮の宮司としてひっそりと生きねばならなかった。
 松平容保が生涯持ち続けたのは、「おのれは朝敵にあらず」との固い信念であり、容保の孫娘松平節子が秩父宮妃殿下として皇室に入られた時、容保の無念のおもいは晴れたのである。
 明治26年12月5日没 享年59歳。

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