田中 玄宰
(たなか はるなか)

 会津藩家老として、第5代藩主松平容頌から容住・容衆の3代にわたって仕え、27年間の在任中に藩財政の立て直しや数々の藩政改革を行った。
 第5代藩主松平容頌は寛延3年(1750)7歳で藩主となり、9代の藩主中最も長い55年治めることとなるが、保科正之以来の藩政は40万両を超す借金となって容頌を苦しめた。このため容頌は、俊才田中玄宰を家老に登用し、藩政の一大改革に着手した。
 玄宰は、藩政の基礎が農・工・商の振興にあり、それをなしとげるためには士=家臣団の教育と人材登用を断行しなければならないと決意した。このため、熊本の古屋昔陽を招いて、藩祖正之が排斥した古学派を導入し、藩政に役立つ家臣団の育成を図ったが、正之以来の藩風を変えようとする玄宰の試みは藩主容頌をはじめ藩内の大きな抵抗にあい、1784年には一時家老を辞することとなった。しかしながら、財政危機に対応できる人物が他に見当たるはずもなく、玄宰は再び家老に復帰して、藩政改革を進めることになった。
 まず、藩士の学風を切り替えるために藩士の就学を義務付け、産業に役立つ知識や技術の習得を含んだ文武一体の教育を始めたが、これは会津藩にとって空前のできごとであった。この学制改革は文化元年(1804)藩校会津日新館の完成となって結実し、実学尊重の気風が会津に根付くこととなった。ついで、薬用人参の栽培、漆器や酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めた。その中においても城下の豪商林光正とともに人材の育成に努めた。遠藤香村は農家に生まれながら画才を認められ、江戸、京都に写生学を学んで会津に帰り、漆器や陶磁器、絵ろうそくなどの図案の改良に大きく貢献したのがその一例である。また玄宰は、江戸に会津物産会所を設けて、漆器、酒類の販売を促進した。これにより江戸の漆器は100%近くが会津塗で占められたという。
 こうして藩政改革を進めた玄宰であったが、藩主容頌の後を継いだ容住・容衆がいずれも若死したこともあり、玄宰の死後、その実学優先の思想は年々保守的なものとなり、藩政も再び疲弊することとなった。玄宰の墓は遺言どおり、鶴ヶ城と日新館の見える小田山の頂上にある。

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