天下の名城 鶴ヶ城

 室町時代の至徳元年(1384)、葦名直盛が最初に築いて黒川城と称したのが鶴ヶ城の前身で、天守閣は、天正18年(1590)蒲生氏郷が入部して七重の天守閣を建てたのに始まり、のち寛永16年(1639)加藤嘉明の子成明が城地の大改修を行った。
 加藤氏はオランダ人を設計者として招いたといわれ、その際、北・西の両出丸が増築され、天守閣の上層2層も取り払われて、五重の天守閣にしたといわれている。このため、蒲生氏時代より規模は小さくなったが、東北地方最大の天守閣には変わりはなく、九州の熊本城天守閣とともに、雄大な威容を誇る名天守閣として広く知られていた。戊辰戦争では、蒲生氏郷が築き、加藤成明が改修した鶴ヶ城はさすがに名城、1ヶ月にも及ぶ戦闘にも耐えつづけたが藩主容保は降伏を決意する。
 開城した後も、暫くは蜂の巣のように打ち込まれた弾痕をとどめた天守閣が放置されていたが、明治7年、天守閣をはじめとする建物等一切が取り払われ、400年以上も続いた天下の名城は消え去ってしまった。
 現在の天守閣は、会津の精神的支柱として再建の声が内外からあがったため、昭和40年9月、約1億5千万円の巨費を投じて再建されたものである。

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